『観世榮夫 わが演劇、わが闘争』2

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舞台芸術』1号(特集:グローバリゼーション)に掲載されたインタビューをお届けします。
観世榮夫(かんぜ・ひでお)能楽師・俳優・演出家
聞き手:太田省吾(おおた・しょうご)劇作家・演出家

 

 

 

 

戦後 —— 他なるメソッドを求めて

太田 四六年開講の能楽塾とは関係があるんですか。この能楽塾は誰がどういうことで作られたんですか。

観世 そのときは、方々が焼けて学校に行けない奴も大勢いて……。能楽塾は能楽師に学問的な素養を与える目的で開かれたもので初代の塾長は桑木巖翼でした。御茶ノ水音楽学校の分教場に舞台があったのでその教室を借りた。

太田 流派は混じって?

観世 ええ。今じゃ考えられないような安倍能成、田辺尚雄、土崎善麿、野上豊一郎、野々村成三など偉い先生がいらっしゃってて。塾生には……

太田 桜間道雄さんのような方ですか?

観世 いや、塾生にはそんな年の上の人はおられませんでしたが、桜間龍馬くらいが一番上でうちの兄貴や宝生英雄さんとか……。

太田 それはやっぱり危機感があったということでしょうか。そのような集まりというのは、根底的というか、能というものの全体をなんとかしようという、何か大きなものが働いてるように感じられますし、ここに戦後を契機とした現代化の意気込みのようなものが感じられますね。

観世 そうですね。その能楽塾ができて僕ら若い者同士の交流ができるようになったんですよ。例えば宝生流金春流喜多流も一緒に勉強したり顔をあわせる機会が多くなった。それまでの能楽界の空気は非常に各流で縦割りでしたから、その空気は変わりましたね。

太田 それと喜多流に芸養子として行かれたこととは関係があったんでしょうね。

観世 それはありましたね。そこでしょっちゅう違う流派と……僕らは子供のときから自分たちのメソッドでしか物をみていなかったのに、違うメソッドがあると。

太田 僕にはちょっと分からないけど、どの程度の違いなんですか。

観世 やることはその流儀によって違う。例えば身体をそれらしく鍛えるというやり方もあるし、曲をどんどんやって慣れていくうちに自然に身体もできるという考え方もあるわけだけど、喜多流はどちらかというと身体をうんと作る考え方だった。

太田 身体を作るとは番数をやるということですか。

観世 そういうこともある。稽古はそうやるんだけど、それより、曲の解釈よりもちゃんと歩くというようなことを一所懸命やる。

太田 そうすると、運びや舞を、西欧型というか、要素を取り出してやるわけですか。

観世 いやそうじゃなくて、曲をやるんだけど……。

太田 そういう身体的な側面を注目するわけですね。

観世 ええ。視点が違うということだからね、一曲ずつここをこうやってというよりも……。

太田 芸養子になるというのは、どういう惹かれ方をなさってのことだったんでしょうか。

観世 稽古に行くのが先だったんだけど……観世ってやつがそこに行って稽古をしているのはどうも具合が悪いと。つまり他の流派のやつは教えないということもあるし、僕が喜多に行って観世のやり方をしていたんじゃ稽古のしまりもつかないというようなことがあるから、稽古に行くといったら、それじゃ困るからというんで格好つけて芸養子ということになったんです。

太田 それは反旗を翻すようなことになりますね。

観世 観世流の方は、出て行くというんだから反旗を翻したようになるだろうし、周りからそういうやつがどんどん出ては困ることがあっただろうから。例えば宝生流とか金春流とかもそういうことはなるべくあってもらっちゃ困るというんで、それだったら芸養子になった方がいいんじゃないか、ということになったんだと思うけど……。

太田 そのときはどんな感じですか。「俺はやるぞ」というような感じですか。

観世 いや、僕の中ではそれが悪いという理由が見つからないから。親父も困ったし祖父も困っただろうと思うけれど。でも結局そういう話にしてくれて。

太田 後藤得三さんの芸養子として、いったん後藤という名前になったわけですよね。

観世 そうです。舞台は十年間ぐらい後藤でした。

太田 榮夫というのは変わらないわけですか。

観世 ええ。

太田 後藤榮夫とおっしゃってたんですか。

観世 ええ。

太田 それとお兄さん方とやられている「華の会」は上手く行くわけですか。

観世 それは僕は喜多流でやって、兄貴や弟は観世流ということで。

太田 そうすると例えば体の動きに力を置くということは、一番舞うということになるとどういう違いが出てくるんですか。

観世 違いは出てきます。曲の解釈も違うときもあるし、それほど明確に出ないものもありますけどね。体の使い方や声の出し方というのは、おのずと変わってくる。

太田 今からお考えになって、成功だったと思われますか。

観世 僕としてはね。本当は皆がそういうことをやるといいと思いますけど。僕は二十一歳ぐらいでそういうことをやってたわけだけど、特にもうちょっと前の十五、六歳ぐらいから二十歳ぐらいまでにそういうことを中心にやるといいと思うけどね。

 

離脱 —— 能界からオペラ、新劇、アングラへ

太田 さらにその後もう一つ大波乱がありますね、三十歳になられて能を離れるという決心をなさる。そこにはどのような経緯とお考えがあったのでしょう。

観世 それは身体を使うというより今度はものを作っていくというときに、やっぱり流儀の拘束みたいなものから離れてやりたいというのが出てきましたね。そのときには、能と向い合って自分の能を舞うことを大事にしなくなってきたのかな。もう一つは梅蘭芳(メイランファン)一行の京劇団が初めて日本に来たときに、東京一ヵ月地方一ヵ月ぐらいの舞台の合間に能を教えてくれといわれて、彼らは東京の皇居前のパレスホテルに泊まっていたので僕もそこに泊まって朝九時から十一時ちょっと前くらいまでホールを借りて能を教えたんですよ。二ヵ月やってたのかな、京都の公演にもついていって一緒に京都のホテルに泊まって……。

太田 京都でもおやりになった。

観世 ええ。旅の間に一緒にくっついていったから。そうでなくちゃ能の稽古はできないからね。そのとき歌舞伎は前進座が教えていたのかな。京舞も前の井上八千代に習ったりしてましたね。それでまず二ヵ月能の舞台を空けていたこともあって、いよいよそういう意味でギクシャクしてきたこともあるけどね。

太田 拘束から逃れてもう少し自由にものを作りたいと。ただ、離脱すると場をなくすということになりますよね。どうしようと考えていらしたんですか。

観世 どうなっちゃうかということよりも、やりたいこともたくさんありましたから。

太田 あまりそういうことは考えなかった(笑)。そのような立場に立ったとき具体的にはどういう状態になるんですか。

観世 ほとんど失業ですよ。

太田 当然能の世界からは声は全くかからないですよね。

観世 うん、かからないというよりかけちゃいけないということ。

太田 それはこの世界で初めての出来事ではなかったでしょうか?もっとも能を離れて他の商売やっちゃう人はいますよね。しかし、榮夫さんの場合、演劇表現と切れようというわけではなくむしろ表現を求めて能と切れたわけで、そのようなことは、なかったのではないでしょうか。

観世 そうですね。僕の後に転流した人はいますよ。金剛流とか東京であまり流行らないやつが観世流になって、観世流になるとお弟子が増えることもあって転流した人はいますけどね。他にはあまりいないかな。

太田 その後は本当に様々なジャンルの、オペラとか新劇とかおやりになり始めますけども、五八年に離脱なさって後は、オペラがずいぶん多いですが。

観世 初めはオペラが多かった。

太田 時代の流れでいうと、五〇年代はいわゆるアヴァンギャルドというか、音楽はかなり先行して一柳慧さんやオノ・ヨーコさんが盛んにやっていた時代ですよね。

観世 そうですね。僕らがちょうどやり始めたときに最も盛んにやってたんじゃないかな。

太田 そういう動きの二、三年後になりますか、その辺りから僕も直接知っている時代に入るんです。青芸(青年芸術劇場)を作られますよね。これはどういういきさつで作られることになったんですか。当時私は学生でしたが、そこから見ていますと、青芸というのは六〇年反安保闘争を中心とした政治運動、そこに初めてあらわれた新左翼の文化革命的な動きの先端にいて、青芸はいわゆる新劇人のデモとは違って、全学連の列に加わる劇団だったわけです。

観世 そうそう。デモのときには一緒にデモをしていましたが、いつも新劇人会議のデモの先頭にいるか最後尾にいるかのどっちかでハネ上りでした。

太田 そうです、全学連の方へ来たという印象が強かった。それで僕らもその劇団を見に行くようになったんです。あのような、新劇人の中に入らないで出て行っちゃうというのはどういうことだったんでしょう。

観世 やっぱりそっちの方がその時点では正しいと思っていたように思います。でもそのときも俳優座劇場で田中千禾夫さんの『八段』という芝居をやっていて、僕はそこで地謡があって出ていたんです。あの六・一五の日も芝居をやっていて、その前をデモが通っていって、芝居が終わってからまた駆けつけたりしていたんです。十六日には作者の千禾夫さんが来て「げにおそろしきは……」という謡の文句を、今日は「げに恐ろしきはポリスなり」っていって下さいと(笑)。

 だから六〇年の十月に青芸の旗揚げ公演があったときに『記録 NO.1』を演出して、青芸の劇団員に会ってそれから五年。

太田 中心は福田善之さんと観世さんと……。

観世 民藝の水品研究所の卒業生。

太田 米倉斉加年さんたちですね。

観世 そう、岡村春彦、常田富士雄、岩下浩なんかの一期生十人くらいが中心でやっていたんだけど、六五年に解散するまで全芝居は僕が演出したんだ。

太田 そうですね。福田善之さんの台本が中心でしたが、とにかく勢いのある劇団でした。最後の『象』まで観ましたけれども。

観世 『象』の後もう一本やったのかな、福田の『三ヶ月の影』という。

太田 そうでした、最終公演は二本立でしたね。勢いのある劇団ということでいえば、唐十郎さんもその研究生だったんですよね。

観世 いたいた。

太田 学生たちも相当シンパシーをもって観ていたところでしたね。

観世 佐藤信君、唐十郎君もいたんだもの。

太田 佐藤信さんは俳優座の養成所にいたんでしょう。

観世 俳優座の養成所を卒業して、青芸の研究生になって。その『三ヶ月の影』で出ろっていったんだけど、あいつ照れて出ないんだよ。岡村がダブルでやってて結局岡村しか出なかった。青芸が解散すると同時に自由劇場を作ることになったのです。

太田 自由劇場の旗揚げは佐藤信の『イスメネ・地下鉄』ですね。あれは観せていただきました。青芸の解散については、どういう感じをもたれていますか。

観世 米倉君や何人かがやっぱり民藝に戻るという形になって……。それはやっぱり運動の一つの終焉のような感じがあったのかもしれないね。自由劇場俳優座の養成所の十四、五、六期が……串田和美吉田日出子文学座に出たし、信はこっちにいたし、そういう人達が何かやろうといってもう一度集まったんです。

太田 自由劇場はどのくらいおやりになったんですか。

観世 それもまた五年、五年周期のような感じですね。自由劇場と六月劇場が一緒になって黒テントをやろうということになったときに、串田は吉田日出子自由劇場を続けるという。どっちに所属するのも嫌だからと言って僕はやめて……。

太田 この、六〇年代の後半から起こり出したアングラの動きに関わっていらして、演劇的に見てどういう感じをもたれていましたか。例えば『イスメネ』や他にも同年代の……。

観世 ええ、新人会もやったし同人会もやったのかな。

太田 だけどそこは随分と性質の違うメンバーですよね。

観世 ええ。そっちは俳優座の養成所に関わった人が多かったですからね。

太田 話が戻るんですが、能界から離脱されると同時に演出をおやりになり始めるときに、千田是也さんや岡倉士朗さんとの関係はどういうふうにして始まったんですか。

観世 千田先生とは、僕は養成所で十年近く教えていたのでその頃からの関係で、岡倉先生は民藝にいらしたときに方々でお目にかかっていたんですけれど、「ぶどうの会」を観にいってもよくお話したりしていたんです。僕はその頃は後藤の家があったから保谷にいまして、池袋の「小山」という喫茶店があったんですが、大概そこには岡倉先生がいるんです。だから行き帰りには一緒になるんだ。

太田 そうですか。

 ところで能から離れてすぐに演出なさるのですが、演出法はどのようにして会得されたのかというところを伺おうと。

観世 会得したかどうかはわかんないけどね、芝居好きで昔からわりに……どうしてっていわれても困るけどな。

太田 例えば千田是也の演出を見るということはあったんですか。

観世 しょっちゅうありました。民藝だって久保栄さんの演出とか……。

太田 ご覧になっていた。

太田 はい。演舞場で『五稜郭血書』の舞台稽古で、

もうあくる日初日なのに小道具の大砲が来なかったのかな。それで久保さんが小道具が来るまで稽古しないといって……。真夜中だからね、役者も裏方も帰れなくて、それでも来るまで待ちますといって。こういう人もいるんだと思いましたね。

太田 そういう現場はよくご覧になっていたんですね。それに、考えてみると、つまりシテというのはそもそも演出家でもあるわけですね。

観世 そうです。

太田 それがきっとあるんでしょうね。しかし、それは能も演劇だという感覚がなければ、そうはいかないところだと思います。お能はなかなかそうは考えられないところがありますから、ここに大振幅の演劇人の基本感覚があるといってもいいかもしれませんね。

 

⇦1大振幅の歩み」 3「異化 —— ベルリーナー・アンサンブルでの演出」へつづく⇨

 

観世榮夫(かんぜ・ひでお)
1927年生まれ。能楽師・俳優・演出家。58年に能楽を離脱し、現代演劇、オペラ、映画など幅広いジャンルで活動。79年に能役者として復帰後は、廃曲の復曲上演などにも積極的に取り組んだ。京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)教授や同大学舞台芸術研究センター主任研究員を務めた。2007年逝去。
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聞き手:太田省吾(おおた・しょうご)
1939年、中国済南市に生まれる。1970年より1988年まで転形劇場を主宰。1978年『小町風伝』で岸田國士戯曲賞を受賞。1960年代という喧騒の時代に演劇活動を開始しながら、一切の台詞を排除した「沈黙劇」という独自のスタイルを確立する。代表作『水の駅』は沈黙劇三部作と称され、現在でも世界各地で作品が上演されている。また、『飛翔と懸垂』(1975年)、『裸形の劇場』(1980年)など、数々の演出論、エッセイを著している。転形劇場の解散後は、藤沢市湘南台文化センター市民シアター芸術監督、近畿大学文芸学部芸術学科教授を経て、2000年の京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)映像・舞台芸術学科開設や、続く2001年の同大学舞台芸術研究センターの開設に深く関わり、日本現代演劇の環境整備に力を注いだ。2007年逝去。

 

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